寿で暮す人々あれこれ
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— 96 —その時、彼は職業としてのカメラを捨てたのではないか。街の人から声をかけられたり、付き合いの中から頼まれた時に撮るようになった。撮ろうとしていたときはなかったが、それからは不思議に声をかけられるようになったそうだ。7年ほどの日雇生活の合間に撮った写真は「羅漢たち」のタイトルで自費出版の写真集となった。この写真の人たちはみんな正面を向いて写っている。レンズで向き合う人に自分の姿が重なって見えたと語っていた。彼の写真はトリミングしていない。それは、彼が尊敬し勝手に師匠としているある老カメラマンから学んだものだという。写真集を発行する前に、彼は寿の人たちに写真展を開いて見てもらった。場所は、寿の中にある寿地区の様々な活動で活用され、親しまれている横浜ファーストバプテスト教会のホールである。大塚さんによれば、羅漢たちとは仏になる修業をしたがなれなかった者を言う。もちろん彼自身のことも指している。写真集は、大塚さんを知る有志達による「羅漢たち」出版委員会で準備され、昭和58年4月17日に出版された。自費出版であった。出版については大手の出版社から打診があった。彼は断った。それは彼の矜持でもあり寿の人々への思いでもあったと察する。さて、彼は、いつからか下水工事の仕事に惹きつけられていった。下水道は水洗トイレや家庭の雑排水などスムーズに流し処理するもので、その要所に下水マスが埋められているが、その内部の流路は、モルタルを鏝こてで鏡のように仕上げることが要求される。それが面白いという。下水工事は主に地中の仕事である。外からは見えない。見ているのは、下水を流れる水洗トイレのウンコと蜘蛛くらいだ、と笑っていたことがあった。そのあと、こう続けた。「誰も見ていない、でも、いい加減にやると自分が壊れていく気がする…」下水は公共のものなので役所の検査が厳しい。しかし、下水道の中まで入ってくる検査は一度もなかったという。せいぜい、入口から覗くだけだ。下水の修理をすることもよくあるが「いい加減な仕事に出合うと腹が立つ。悲しくなる。しっかりした仕事を見ると涙が出るほど感動する」とも言っていた。

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