寿で暮す人々あれこれ
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— 93 —寿で暮らす人々あれこれやがて、寿の子どもたちが夢にも考えていなかった式根島行きの実現にみんなで取り組むようになった。多くの関係者の理解や努力があった。それもこれもあの言葉から始まったのだ。あの言葉を発するアキさんにはどんな人生の経験と工夫があったのだろう。結局、式根島には、その後3年間通うことになった。透明な海、海藻や魚や貝などが手にとるように見える式根島の生活は、子どもたちに大きな思い出を残した。あの頃の小学生や中学生の子どもたちは、今や30代で親になっている。さて、式根島行きはなぜ3年間だったのか?アキさんは、病を得て療養を余儀なくされ、豆の木を休まなくてはならなくなったのだ。ある時、ふらっと訪ねてきて「村田さん、静かな音楽でお薦めの曲はない?ジャズを聴くのはエネルギーがいるのよね。聴けないの」などと話していった。なぜか医師と薬が嫌いなアキさんは、2年間ほど食事や安静など自然治癒力に依拠して回復を図っていた。それからしばらく経って、アキさんの連れ合いさんから入院の依頼があった。早速お部屋を訪ねた。一刻の猶予もならない状態と見えた。これまで入院を勧めたが本人が「うん」と言わなかったという。救急車を手配して神奈川県立循環器呼吸器病センターへ入院した。翌日、ご主人から連絡があった…アキさんは生前言っていたという。「私の戸籍を外国の方で困っている人にあげて」と。葬儀はごく内輪で行なった。届出をして埋火葬許可証をいただき、霊柩車はやだというので、僕の車で火葬場に向かった。アキさんの願いは、死者を弔う手続上かなえることはできなかった。アキさんの連れ合いさんは豆の木の活動に参加することはなかったが、定期的に寄付を寄せて下さっていた。時々、財政に困ることがあるとまとまった金額を寄付して下さった。明るい声で「僕の家にはドラえもんの四次元ポケットがあるから」とおっしゃっていた。豆の木学校は、子どもたちの居場所として毎週一回ながら現在も連綿と続いている。

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