— 7 —版した「上肩一代 佐藤勘治遺稿集」に、芹沢氏は「勘さんと私の簡易宿泊所問題20年」とする追悼文を寄せています。その抜粋です。「横浜市としては建築・消防・民生の生活保護以外何一つ対策が行われていなかった。というよりは社会福祉の制度化・専門化・技術化の中で、ドヤ街対策が成り立ち難い真空地帯であることに気付きかつ驚いた(以下略)」とあります。芹沢氏は、何気ない話やビラや、メモなどを大切にするよう普段から話していました。それは、寿の問題は、一つのきっかけから際限なく出てくる…という体験からの思いだったと思います。また、福祉の問題は、福祉を提供する側から語られがちだが、受ける側の視点が欠落されてはならないと強調されていました。そして、誰でも気軽に来られるような施設にしてくれとも仰っていました。寿福祉センターは、寿で暮らす人々とともに活動し解決していくこと、寿の問題を社会に発信することを目的とした施設でした。法人からの活動の制限や禁止はありませんでした。そのため、自由に町や人々に関われたのだと思います。来る日も来る日も寿の人たちの中にいました。その中で、様々な活動が生まれました。寿で暮らす人々の連載のきっかけ寿に暮らす人々を保育所の「クラスだより」に書くことになったきっかけがありました。南雲保育士との雑談の中で、「保育所の保護者の方々に、寿のことを知ってほしい」という意味のことを言った時でした。南雲保育士は、「そう感じられるのなら、保護者の方々に理解していただくよう寿のことを書いたらどうですか」と勧められたのです。第一回は、老人クラブのおじいちゃんたちのこと、毎日保育所と周辺の清掃をしたり、子どもたちの安全はじめに
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