寿で暮す人々あれこれ
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— 79 —寿で暮らす人々あれこれ昭和20年5月、横浜大空襲で寿地区すべてが灰燼に帰した。戦後、連合軍(米軍)に長く接収されたが、昭和28年頃から30年にかけ接収が解除されていった。その間、元の地主たちの多くは土地を手放してこの地から去っていた。寿のドヤの第1号が営業をはじめたのは昭和31年。港湾の日雇労働を紹介する横浜港労働公共職業安定所が桜木町(野毛)から寿地区に移転してきたのが昭和34年。それから、本格的に寿地区ドヤ街が形成される。時代は「貧乏人は麦を食え」と言った宰相が、所得倍増を掲げ高度経済成長策に突き進む前夜であった。日本も寿地区も未曾有の大変化に巻き込まれていく。ガラクタヤは、寿地区内で何回かの移転を経て、昭和49年に建設された寿町総合労働福祉センターの1階で開店することになった。名称は変わり「会館売店・平田商店」これまでの品目に加え、米、菓子、嗜好品など幅広い品目を扱うお店として新たに出発した。当保育所も給食で使う材料を仕入れるなど一層身近なお付き合いが始まった。昭和55年、苦楽をともにした夫に先立たれ、以後、一人で店を切り盛りしていく。仕入先との信頼関係が良い物を安く仕入れるには大切と夫が長く築いてきた看板を一層ひろげていった。肝っ玉かあさんの名の由来は、当時、テレビで人気のあった「肝っ玉かあさん」を演じたテレビ俳優に顔も雰囲気も気風も似ていたからだといわれている。向こうは物語。こっちは本物だ。寿地区で活動するいろいろな団体は「肝っ玉かあさん」の陰日向のない配慮と援助を受けなかったところはないだろう。「あちしがこれまで生活してこられたのは、寿の皆さんのおかげ。だから少しでもお返ししたいといつも思っているの」店にデンと座って、お客さんの一人ひとりを通して寿の歴史を見つめてきたことだろう。先日「肝っ玉かあさん」を送るささやかな集いがあった。「皆さん、こんなパーティーを開いていただい

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