寿で暮す人々あれこれ
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— 78 —あるとき、Nさんは自転車で病院の帰り道、信号を無視して車にはねられて亡くなった。施設で生活していた息子さんに知らせ、先のKさんを交え数人で葬儀をした。Nさんとの思い出。Nさんの暴力のエネルギーが最強にはじけていた時、僕はケンカでは敵わないので相撲を提案した。小雨のなか保育所の園庭でくんずほぐれつした。Nさんは疲れて先に音を上げた。僕の手はNさんのバンドを握ったままの格好で固まってしまった。Nさんの腹立ち紛れの頭突きを受けて相撲という名の立ち回りは終わった。見守ってくれていた友人が「30分やっていた」と教えてくれた。Kさんも,Nさんも亡くなったいま、僕は無性に淋しくてならない。KさんもNさんも混沌の中、必死に何かを求めて生きていた。KさんやNさんがもしその何かに行き当たったならKさんも、Nさんもそして僕も変っていたかもしれない。お二人の冥福を祈る。寿のおかあさん ─ 肝っ玉かあさんのこと平成19年6月「寿のお母さん」と親しまれ、頼りにされていた肝っ玉かあさんが、寿での48年にわたるお店を閉じることになった。昭和34年、寿地区ドヤ街が形成されようとしていた揺籃の時期、ここ寿にご夫婦で店を開いた。店名は「ガラクタヤ」。港湾や土木建築の労働に必要な作業着、軍手、地下足袋、長靴、作業用品を売るお店だった。間口二間、奥行き二間の小さい店に福々しいお顔と身体をデンと置いて、横浜港で働く荒くれたち日雇労働者の客をハキハキさばいていた。戦前のここ寿地区は、輸出用のパジャマの縫製工場がミシンの音を響かせる横浜の代表的な下町だった。

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