寿で暮す人々あれこれ
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— 72 —さて、こうあるべきという規範を大事に生きるのもひとつの生き方だが、それを「たて」にそうでない人を非難したり許さないということになると話しは別になる。例えば、行政が旗を振る「町をきれいにする運動」のように、人間として反対できないような主旨の運動を組織化することには、僕は賛成とは言い難い思いを持っている。一人ひとりの心の中にあるささやかな好みや善意が、動員され組織化されることによって有無を言えない強制と変る。個人の自由な行為では感じなかった苦痛を感ずることにもなる。それは、普段の生活の中の自由な行為が、義務化された行動にかわることである。そして「運動」は社会的な正義となる。いわば、それぞれ個人の思いや行為に違いがある中で自然に働いてきたお互い様のお付き合いが、参加するか、しないかによって共同体の中で評価されるようになっていく。主旨が集団となり組織化された「正義」となっていくと、生活の中で相互看視といっていいような雰囲気が広がっていく。その強弱によって、地域での日常生活が暮らしにくくなってもいく。善意については、目立たないで密かに行われるから善意だと思う。半ば義務化された運動に参加するのは気が重い。参加しないことは結構なプレッシャーになる。集団の側は「正義」は我にありと思っているから、個人のささやかな気持ちは気にもしない。決まりを守らない人間と思うだけだろう。歴史上「正義」の名によって殺された(死んだ)人が圧倒的に多いということがある。行政や団体など権力を持ったところが呼びかける行為には括弧付きの「正義」と受け止めている。「正義」は、その運用によっては人を追い詰め、時には死に至らしめることもある。本来正義は、集団の力を借りて人を追い詰めるものではないだろう。人の心の片隅にあって、人間関係の中でひそかに働くものだと思うのだが。「正義」面でもしたら正義は跡形もなく消えるというものだろう。「そのくらいいいではないか」というのは、優しさでも正義でもないだろうが、日常の生活や人間関係の中で目には見えないが潤滑油のように大切な働きをしているのではないか。ある友人の部屋はさりげなく美

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