寿で暮す人々あれこれ
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— 71 —寿で暮らす人々あれこれ人ほどがクラブの活動をすすめるうえでも丁度良い数のように思えたりする。さてトラブルだが、いろいろなことが原因となるが、その1「バザーの忙しいときにあまり働かない」、その2「着ている衣類など不潔である…」、その3「喧嘩、口論」その他「生意気である…」などなど。時々仲裁を頼まれる。これは根が深いなと感じる時もあれば、他愛ないと感じるときもある。まあ、何とか仲裁成立ということもあるけれど、その効果のほどは疑問符が付く。未熟な若造が仲裁に立つのだから、顔を立ててということもあるだろう。仲裁はお互いの言い分を聞いて「問題とされる人」に懐柔よろしく説得することが主だった。何年も、何年も仲裁は続いた。あるとき、僕はふっと「トラブルの原因」について思い違いしているのではないかと思った。僕は、トラブルは「問題とされる人」に原因があると何の疑いもなく思っていたのだが、トラブルを惹き起こす原因は「問題にする人」にもあるのではと思い至ったのである。注意深く見たり、聞いたりしていると「問題とされる人」は、見ようによっては結構マイペースでやっていて「いいかげん」と見られないことはない。決まりごともそう守るほうではない。「問題にする人」は、こうあるべきということを大事にしている「真面目」な方で「いいかげん」なことは許さないのである。これはもしかすると「正しさ」をたてにした意地悪?ではないのか。ただ、本人は正しいと思っているから、それはむげには無視できない。「あいつが来るならおれはやめるっ!」と言ってもいるのだから。以来、仲裁の方法は変わった。僕の中に解決のイメージがなくなったのである。結論は急がなくていいかな。お互いの生活が変わるものでもないのだから。「そのくらいいいではないか…」という具合。しかしながら、この「問題にする人」「される人」の関係は、個人の間の関係や老人クラブというささやかな小宇宙の中のトラブルにとどまっているのならばさして問題はないと思うのだが。この現象は社会的に案外大きな意味を持って広がっているのではないか。

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