— 60 —満員電車に乗るのである。逡巡した末、着替えを勧めた。案の定、彼は嫌だと固辞。僕は満員電車に乗る憂鬱を思いながらJRの石川町駅へ向かった。電車に乗るときは感動的だった。彼が乗り込むと満員の乗客がサーッとよけるのだ。つり革につかまったら座っていた人がぱっと立ち上がる。申し訳ないが座ることにした。車中では音楽が聞えるという。後でわかったが車輪の響きがそう聞えたのだ。秋葉原駅で地下鉄に乗り換えた。地下鉄への階段を下りるときには足をすくめた。支えて降りた。後で聞いたら断崖に見えたのだそうだ。ようやく三ノ輪に着いた。マックでは、彼はボーっとして宙のある一点を見詰めているだけだった。3日間付き添った後、一人で通ってもらった。彼は、毎朝、顔をだして、3000円を受け取っていく。1週間になったが病院は依然として見つからない。彼は「こんな格好では恥ずかしい、着替えはないだろうか」と言ってきた。少しは正気が戻ってきたのだろうか。彼はマックへ通い続けていた。あの状況で片道2時間余りをなぜ通い続けられたのだろうか。後に本人に聞いたが、本人もよくわからないのだそうだ。そのときの記憶はほとんど残っていないそうである。彼は寿の単身のアルコール依存症者の回復の最初の人となった。後に続いた依存症者も、通いだした1~2週間ほどのことはよく覚えていないという。1ヶ月ほど経った頃、彼は、週刊誌を開き湖と山が写っている写真を指して、美しさに感動したと話してくれた。寿のアル中さんとの付き合いは長いが、このような何気ない楽しい雑談をした経験はなかった。彼の顔色は、目に見えてよくなり、笑顔も出て表情が柔らかくなった。服装もさっぱりとしてきた。話しもわかり易く多様になった。これが回復なのだろうか。僕には初めて見るアル中さんの変化だった。彼はその後も紆余曲折を経ながら、いろいろな体験を通し回復していくのである。2ヶ月ほど過ぎた頃、彼は、マックスタッフのサゼッションや東京のAAメンバーの協力を得て、寿のメンバー数人とAA横浜グループを立ち上げた。寿の近隣の会館にミーティング場を探したが、アルコール依存症者のミーティング場と話すと断られてしまった。グループの最初のミーティング場は、南区中村町に在
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