寿で暮す人々あれこれ
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— 53 —寿で暮らす人々あれこれ寿地区での僕を含めた多くの援助者のかかわりは、同じことを根気よく繰り返し、年月が経つにつれて重症化していくアル中に、病院や生活保護を何とか確保し命をつないでいくことに追われる毎日だった。関係者の気持ちの片隅には、いつか本人が気づき「立ち直る」との期待があった。しかし、状況は少しも変わることがなかった。昭和54年6月、相談室に幻覚に見舞われながらアル中のHさんが助けてくれとやってきた。福祉事務所では「どうにもならない」と見ていて「入院先を見つけてくれれば受け入れます」という姿勢だった。保健所のSWとともに入院を受け入れてくれる病院を探した。なかなか見つからない。それまでの間マックに通ってもらおうか、時間稼ぎにはなるか、と思った。昨年から、何人かにマックをすすめていたが1~2日、長くて1週間ほどしか続かなかった。本人と明日の7時と約束した。多分こないだろう。アル中さんはほぼ約束を守らない。翌日、本人は野宿で着古したオーバーを着込んでやって来た。満員電車に乗る憂鬱を思いながらJRの駅へ向かった。ようやく三ノ輪駅に着いた。マックでは、本人はボーっとして宙のある一点を見詰めているだけだった。昼食は牛丼店に行く。彼はおかわり2杯。さて、病院探しは難航していた。三日目からは自分で通ってもらった。「本人に任せてください」とのM神父の助言があった。彼は寿の単身のアルコール依存症者の回復の最初の人となった。以後、着実に回復する人が続いて今日につながっている。寿の単身のアル中さんが、マックに通い回復の道を歩み始めてから今日で27年になる。マックには依存症者だけでなく、医療・福祉関係者や家族なども訪ねてくるようになった。僕もその一人だった。M神父はそういう関係者のために、アルコール依存症の回復とそのプログラムについて月1回「プロセミナー」を開いてくれた。毎回、AAの12のステップを使って飲まない生活を続けている依存症者本人の体験を聞くことが出来た。アルコール依存症について、依存症者本人たちから学ぶことができた。帰途の

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