寿で暮す人々あれこれ
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— 52 —の仲間と出会うため、また紹介してもらうために断酒会に出席し福祉事務所や精神病院を訪問した。山谷の城北福祉センターも訪ねた。そこでは山谷のアル中にも出会った。その活動をする中でM神父は愕然とした、という。日本では、医療や福祉関係機関でもアル中は「病気」とは認められていなかったのだ。アルコール依存症が病気であると実証するためには「どうにもならないと思われている」アル中が回復する姿を見てもらわなくてはならない。M神父はアル中の回復の活動に取り組む決意をした。M神父流に言えば「山谷のアル中が回復すれば文句ないでしょ」という表現になる。まず、埼玉県の大宮駅の近郊に会社の寮だった建物を借り、昭和50年、ハーフウェイハウス「大宮レジデンス」(通称大宮ハウス※2)を開設した。福祉事務所や精神病院を回り「どうにもならない」というアル中さんを紹介しくださいと頼んだ。AAのプログラムを中心に共同生活を始めた。その基本は一日3回のミーティングである。入寮した仲間といろいろな地域の断酒会や米軍基地内のミーティングに通いながら、依存症者や医療、福祉の関係者との出会いを広げた。それら行動のすべては、アル中さんにとって生活のリハビリとなっていた。医療関係者、福祉関係者との出会いを重ねて新しいミーティング場もできていった。数年後、両手で数えるほどの回復のプログラムを実践する仲間が育った。さて、次は。ハーフウェイハウスでは、限られた人数の依存症者しか受け入れられない。もっと多くの依存症者に回復のプログラムを提供したい。そのために、毎日通うことができるリハビリテーション・センター設立を計画。昭和53年4月、台東区三ノ輪に日本で始めての依存症者の運営による三ノ輪MAC(以下マックと称す)を開設した。同時に大宮レジデンスを閉じた。その頃に、M神父が、マックの運営の参考にしたいと、寿福祉センター相談室に訪ねて見えた。M神父との出会いだった。やがて、マックには各地域、施設、病院などから依存症者やその関係者が通うようになっていった。

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