寿で暮す人々あれこれ
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— 50 —知覧町に行き着いた時、心と身体を縛り付ける名状しがたい感覚に捉えられた。同じようなことは、寿地区の共同墓地を作る運動に没頭していた頃、その建設に理解を示し、協力を惜しまなかった青葉区徳恩寺住職さんのお寺の無縁墓地でも同じような感覚にとらわれたと言う。高木さんの深い思いが、今は亡き方々の思いと共振したのではないか、生者と死者は、案外近い関わりがあるものなのではないか、と鈍感な僕も思ったものだった。アルコール依存症について ─ 三人のアルコール依存症神父のことM神父 ─ ドヤのアル中が回復したら文句ないでしょ「心が原因なら、わたしはアル中毒(アルコール依存症)になっていません」M神父の言葉。「病気には注文を付けられません」と独特の言い回しでこの病気の本質を語った。僕の寿での相談の主なお客さんは、アルコール依存症(以下、アル中と略す)の面々。日本ではアル中は、正しい意味で病気とは思われていない。家庭やその育ち、個人の性格や人間性などに原因があるとされている。実は、僕もそうだった。なぜそう思うようになったのか、思い返してもわからない。自分が思っているように、何の疑いもなく人も社会もそう思っている、と安心していた。何の疑いもなく思い込んでいる時、偏見はもっとも強固であると言われる。病気は人間の故事来歴には関係はない。社会は、分かりにくいことや集団(社会)に都合の悪いことなどは、個人や家庭に責任を押し付けてきた歴史がある。WHOは普通の意味で病気であると宣言している。寿の単身のアル中さんは、医療や福祉関係者からどうにもならない人間と思われていた。そのどうにもな

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