寿で暮す人々あれこれ
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— 49 —寿で暮らす人々あれこれ僕と高木さんの出会いは、高木さんが身体の具合が悪くなって相談に来たことに始まる。僕はまったく覚えていないのだが、向かいの寿町勤労者福祉会館3階にある診療所まで、僕が高木さんを背負って連れて行ったというのである。寿地区のさまざまな団体の活動が活性化されたのは、老人クラブの活動に刺激されたからだといっても過言ではない。中心に老人クラブがあり、その中心に高木さんがいた。僕が、料理の持つ力と楽しさに目を開かされたのは、高木さんの調理の現場を見てからだった。そばやうどんを打ち、そうめんを湯がき、昆布や干椎茸や鰹節などから出汁をとりするその手際のよさと美しさに見とれてしまった。また、園児が大通り公園で採って来た山桃の実をジャムにしてくれたり、桜餅に巻く桜の葉っぱを園の庭にある山桜の葉で塩漬け(これは失敗したが)にしたりしているのを見ていて、こんなふうに出来たらどんなにいいだろうと心底うらやましく思ったのだった。ある日、高木さんに「料理を習いたいと思うが何処かいい料理教室を教えて…」と頼んだことがあった。高木さんは、ちょっと首をひねってから「家うちで自分で作ったらどうですか」。以来、僕は今までよりも意識的に料理を作るようになった。もっとも、高木さんのように、その場にある材料で臨機に自在に作ることなどできないけれど。高木さんの人生は、波乱に満ちていた。高木さんの日常の過ごし方や様子を見ていて、高木さんにとって寿の生活は楽しく幸せな生活だっただろうと思う。生前に別れた息子さんとの交流も実現した。高木さんの話しに心が揺さぶられたこと。高木さんは若い頃、役所勤めで戦地に赴く人の召集令状を発行する仕事に携わっていた。いわば、赤紙の発行である。兵士の所属先に付き添い送っても行った。つらい仕事だったという。戦死した人、特攻で飛び立っていった人など還らぬ人も…。そのことがずっと心の負担となっていたと言う。念願かない鹿児島県の

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