寿で暮す人々あれこれ
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— 35 —寿で暮らす人々あれこれき倒れてしまった。救急で入院。退院して老人ホームへ。2年半ほどホームで生活したが、同室の人と気まずくなり退所、寿に戻ってきたというのがこの3年の生活だった。穏やかに淡々と話すチヨさんの注射からの「逃避遍歴」を大笑いして聞いていたが、涙がにじんできた。チヨさんにとって、注射は老人ホームや寿での生活を投げ出すほどのことだったのだろうか。僕には想像すら出来ない。今度また…と尋ねてみた。チヨさんはこともなげに言った「逃げちゃうわよ~」路上の生 ─ 橋村さんのこと「先生!また来たよ!」玄関のほうから相談室にやけに明るい大声が響く。「お、退院してきたな」胸のうちでつぶやく。橋村さんは、春も暖かくなる桜の盛りの頃に精神病院から退院してくるのだ。「これ、預かっといて」と言ってから、大柄な身体を椅子にどっかりと預ける。紙袋の中身は、寝巻きや下着や入院中書き溜めたノートなどが入っている。相談室で、砂糖をたっぷり入れたインスタントのコーヒーを飲んでから町へ出て行く。翌日、寿の大きな通りの四つ角の真ん中に上半身裸の橋村さんは、弥勒菩薩さんのように頬に指先を当ててにこにこと半跏趺坐している。この四つ角は、退院してきた橋村さんの定位置である。町の人は、怪訝そうにながめる人、迷惑そうに眺める人、苦笑いを浮かべる人、親しく声を掛けていく人、無関心に通り過ぎる人さまざまだ。車もそろりとよけて通る。でも、誰一人座す橋村さんを排除しようとする人はいない。一

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