寿で暮す人々あれこれ
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— 29 —寿で暮らす人々あれこれ抑揚の効いた歯切れのよい口上の「バナナの叩き売り」もほとんど見ることも聞くこともなくなった。僕は、ガジリヤさんが来るのを楽しみにするようになった。一いっ風ぷりゅう流なひと ─ 勘さんのこと寿福祉センターが開所して間もなく相談室の椅子に下駄履きの人がどっしりと座った。大きな太鼓腹がシャツのボタンがはまらなくて半分はみ出している。頭はつるつる海坊主。顔はまん丸で目は顔の中に埋もれている。表情は柔和で笑うとえくぼが出来て穢れない子どものよう。思わず見とれてしまった。彼は突然言った「ここは(以下寿と略す)初めてなんだろ。どんな感じがした。寿について教えてやろう」このことは、彼の人となりが理解できた頃になって、彼の好意そのものだったと理解できるのだが、当時、意気盛んで何かしたくて仕方がなかった僕は、その言い方が気に入らず、心中(僕の体験を通して知ることだ。余計なお世話だ)とカチンと来た。その後はもう対話にならなかった。後に彼は「向こうっ気の強い奴と思った」と苦笑いしていたが恥ずかしく思い出される。僕は、地域で労働者や母親や子どもたちと過ごした。寿の問題を話しあい、活動していた。彼は、問題を話す場には必ず参加していた。長いお付き合いが始まった。彼は、横浜港の上うわがた肩(沖おきなかし中士ともいう)だった。上肩は倉庫や岸壁の荷物を艀はしけに、艀の荷物を岸壁や倉庫に「肩に担いで」積み込み、積み下ろす労働者である。上肩は港が機械化される以前の港湾労働者の花形だった。艀と岸壁の間は「あゆみ」と呼ばれる板で結ばれ、上肩は、重い荷を担いで往復するのである。その「あゆみ」は大きくしなう。そのしなりをうまく利用して

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