寿で暮す人々あれこれ
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— 181 —僕のことを放り投げ、遊ぶため勝手口から駆け出していくときに、敷居に足を引っかけて前のドブ川にドボン、2回目は、自転車の三角乗りをして小川の欄干のない狭い橋を渡り損ねてドボン、3度目は、少し上流の川を向こう側に渡りたくなって、少し先の橋を渡るのが面倒なので、畑にさしてあった竹竿を引き抜いて、それを棒高跳びのように使って向こう側に… しかし、竿が刺さりすぎて向こう側に傾かず体だけ宙に舞ってドボン、4度目は外出禁止になりました。家の付近は、畑、水田、雑木林、果樹など環境に恵まれ、トンボ、カエル、ザリガニ、メダカとりなど朝から晩まで遊び呆けていた至福の子ども時代でした。高校、大学の時代には、友人と「いかに生きるか」ということを夜明けまで語り合っていました。今思えば、観念で頭を一杯にしていたものだと思います。農業をしたいという気持ちが強くなっていました。卒業する時が迫っても、就職する気がなく進路は定まりませんでした。大学の3年間、夏休みを利用し農家に住み込みました。しかし、農業の厳しさに農業で生きていく決心はつかぬまま、日本社会事業学校専修科に入学しました。先延ばしの時間稼ぎでもありました。専修科時代の夏、台東区根岸に住む友人に「山谷のドヤ街」の案内を頼みました。暑い夕方のこと、大勢の労働者が行きかう道を歩き、大勢が集まっていた四辻に出た時、労働者たちがじっと僕等を見ていることに気が付きました。その視線は、全身にまとわりつくようで、熱気と怨念のようなものを感じ全身がカッと熱くなりました。その時、「ここで働きたい」と強く思ったのでした。専修科の教授に相談しました。「ドヤで仕事をしたい」。しばらくして返事がありました。神奈川県匡済会が横浜の寿町に隣保施設を開設するので相談員を募集している、と紹介してくださいました。早速、問い合わせましたが、工事が延びて開設は来年になったということでした。教授から、川崎市にある日雇い労働者の宿所提供施設「川崎宿泊所」で相談員を募集している、と紹介されました。昭和42年4月、神奈川県の外郭団体が運営する宿所提供施設で働くことになりました。宿泊所に中村さん

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