寿で暮す人々あれこれ
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— 175 —寿で暮らす人々あれこれ務局を置き支援が始まりました。昭和58年6月、グループのメンバーと後援会員たちは、中区妙香寺台に2階建ての家屋を借りて、横浜マックハウスの活動を開始しました。職員は1人、横浜グループのメンバーでした。定期的に横浜マックスタッフと後援会事務局の会議も始まりました。事務局の専任ボランティアとして、英語の堪能な桑久保さんが参加し活躍してくれました。横浜マックの活動や運営資金の状況などを知らせる後援会ニュースも発行することになりました。マック後援会は、横浜グループのメンバーと共に自由で多様な活動を展開しました。運営資金については、趣旨をパンフレットにして、後援会員を募り資金を集めました。また、ミニーさんの紹介で、カトリックの横浜教区の浜尾司教とお会いし、横浜マックの運営資金の協力の理解を得ることが出来ました。司教は、わざわざ寿地区を訪ねて来られ、AAメンバーにも会ってくださいました。その後、司教さんの私書を務めていた田代司祭さんから、教区の献金の責任者である方をご紹介いただき、三ノ輪マックにしていた教区の献金部分をミニーさんも了解のうえで、横浜マックへ移行してくださいました。こうして、横浜マックの活動が始まりました。昭和59年9月には、保土ヶ谷区神戸町に「横浜マックデイケアセンター(以下、横浜マックと略す)」を開設し、同時に妙香寺台のグループホームは閉鎖することになりました。職員は3人になりました。2人は横浜グループのメンバー、1人は元三ノ輪マックの職員でした。こうして、関係機関も横浜マックを活用し、寿の依存症者は、横浜マックへ通うようになりました。横浜マックが作られる頃、日本の各地には、三ノ輪マックのプログラムを活用するマックが作られていきました。AAのミーティング場もAAのグループが増えるにつれて多くなっていきました。横浜マックが開設して数年、横浜マック後援会としての資金集めも限界となってきました。職員も給料だけでは生活できず、アルバイトをする必要が生じてきました。運営を維持することが難しくなってきました。ボランタリーな組織である後援会活動の限界が見えていました。横浜マックの職員は、横浜マックの活動に

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