寿で暮す人々あれこれ
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— 168 —きました。店主は、蛍光灯は受け取らず、お金だけ渡してくれたそうです。AAはアメリカ生まれなので、日本人には合わないのではという専門家の意見がありました。しかし、多くの日本人たちが回復していきました。のちにミニーさんが語ってくれました。「僕の言葉や話によるAAのステップは、日本人に受け入れられました。そして、回復を歩む日本人の語るステップは日本人に伝わり回復していきました。」寿のアル中さんもミニーさんの話には、お腹を抱えて笑っていました。自分も同じ経験をしたよ、という共感の笑いです。さて、山本さんは福祉センターでは、相談の場を見たり聞いたり、来所した寿の人たちと雑談を交わしながら親しくなっていきました。寿から初めての回復者が出てから、その仲間たちとともに横浜グループを作り、グループ活動の運営ノウハウを伝えていきました。仲間とともにグループのミーティング場を借り少しずつ増やしていくなど気軽に楽しみながら活動していきました。僕もその傍らでいろいろと学ばせていただきました。昭和55年3月、第1回の横浜グループによるAAステップセミナーが、県立勤労会館(現在の労働プラザ)で行われました。東京や埼玉からもAAの仲間が参加し、福祉や医療、保健機関の職員も出席しました。大勢の人の前で、寿のメンバーたちは、自分の体験をステップを通して語りました。思えば、こんな日がくるとは想像もしないことでした。山本さんの働きは、横浜グループのメンバーの前に出ることなく、メンバーをサポートしていました。山本さんは、ミーティングの出席や飲んでいた頃に世話になった病院や福祉施設や福祉事務所など関係機関へのメッセージを欠かしませんでした。苦しんでいる仲間とともに活動することが、自分や仲間の回復になることをよく承知していました。言葉でなく仲間に伝えることでもあるのでしょう。横浜グループのメンバーは、山本さんの背中を見て成長していったということができると思います。僕にも山本さんとこんな経験が

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