寿で暮す人々あれこれ
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— 162 —合同慰霊祭が行われました。昭和53年8月、横浜市営寿町住宅の敷地の一角にことぶき供養塔か建立されました。この供養塔は、寿地区自治会の前会長であった秋場茂さんや彼と志を同じくした中田志郎さん、木下陽吉さんたちが、寿で亡くなる引き取り手がない多くの無名の人たちの千秋の安息のために、長く地道な募金活動の結果でした。当時の僕は、生きている人々のことが心を占めていて、死にゆく人に対する思いは希薄でした。ことぶき供養塔の建立の活動で秋場さんと今は亡き徳恩寺の住職さん(昨年の8月のひときわ暑い日、体調がすぐれない中でことぶき供養塔での施餓鬼の御経をあげていただいたのが最後となりました)の出会いがありました。当時、壮年の住職さんは、托鉢行をしていました。その行で寿の辻に立つことがあったといいます。住職は、ある時出合った寿の人に「御経や葬式はお金持ちのもの、寿の我々には縁がない」と言われ、そのことが契機となり秋場さんと親しくかかわりを持つことになりました。住職さんも托鉢行を通じて、ことぶき供養塔の基金集めに協力してくださいました。寿では毎年多くの方が亡くなります。突然の連絡にも住職さんは御経をあげに来てくださいました。住職さんがなくなるまで40年余続いた活動です。今は、後を継いだご子息の住職さんがその志を引き継いで下さっています。平成24年10月4日、徳恩寺の千秋の丘で、例年通り供養が行われました。千秋の丘は、秋場さんたちが途切れることなく続けてきた寿の共同墓地建設の活動の結実です。住職さんの厚志もあって、平成3年9月21日に徳恩寺の墓地の一角に建立されました。千秋の丘は、南東方向に向いて建てられています。寿に向いて建てられているのです。晴れた日は、ランドマークタワーが小さく見えるので寿の方角はすぐわかるのです。徳恩寺ではひときわ大きな千秋の丘の脇に墓碑銘があり、千秋の丘の由来が刻まれています。

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