寿で暮す人々あれこれ
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— 149 —寿で暮らす人々あれこれう。日本にはあまり戻らなかったので、資産は弟に譲ったという。敗戦で帰国。戦後の混乱の中、きびしい生活が続いて、昭和35年、妻子を置いて横浜に出てきた。「アメリカ人が泊まるホテルに泊まってバイヤーをやりましたが、個人では信用されず、商談がまとまりそうになっては失敗しました。生活に困り港湾で働くようになりました。仕事がしやすい寿に来ました。今思えばその時に帰ればよかったのですが。怪我などもして、帰るなら土産を持ってなどと思っているうちに年月がたってしまいました。住民票などは、悪用されると妻子に迷惑がかかると考え偽名で暮らしてきました…」土地勘もなく知りあいもない横浜の土地では思うようにはいかなかっただろう。「帰ろうか、何とか成功したいと思うはざまで今日になってしまった。いまさら故郷へ帰ることなどできないが、妻や子どもたちの消息を知りたい、できれば会いたい…」他人に話そうと踏み切るまでずいぶんと思い悩んだことだろう。「その後何度か話を聞いて、大賀さんの気持ちもはっきりしてきた。ドヤに住んでいることは、妻子のためにも自分のためにも知られたくない。アパートに移って住民登録をしたい。妻子の住所と様子を知りたい。弟の財産を当てにしていると思われたくない」などだった。大賀さんの気持ちの区切りをつけて新しい生活に踏み出すため、大賀さんの妹さんと連絡をとることになった。昭和49年7月、大賀さんに同行し神戸駅の近くの湊川神社で、やがて来るだろう妹さん2人を待つことになった。大賀さんは緊張で落ち着かない様子だった。あっけない出会いだった。妹さんは「おたがいよう年をとりおって…」僕はその場を離れた。それからしばらく3人で話し合っていた。神戸駅で別れるとき妹さんは「苦労かけさせよって…。まあ、無事でよかった。義姉と長女は苦労しよったで。あんたの娘や息子のところは知らされんよ…。そのうち会えることもあるだろうよ」と伝えていた。

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