寿で暮す人々あれこれ
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— 13 —寿福祉センターで老人会食が始まり、匡済会の福祉紀要・7・8合併号によるオイルショック後の寿の状況を記録した、「寿ドヤ街―もう一つの市民社会と福祉」の発行、寿日雇労働者組合による県労働部との年末一時金闘争など多様な活動が繰り広げられました。寿文学研究会と白百合俳句会の発足、寿夜間学校から寿識字学校が誕生していきました。新たに生まれた活動と文化的な活動の一部です。さて、時を少し戻します。そんな状況を背景に、住民懇と横浜市の交渉で、昭和58年4月、寿生活館の再開が合意、閉鎖されてから、実に8年間が経過していました。この合意の内容は単なる再開ではなく、寿生活館の運営に地域の自主運営に道を開く住民の意見が大幅に受け入れられたものとなりました。この時期が寿ドヤ街にもたらしたことは、活動の多様性と要約できるでしょう。寿福祉センターは、これら活動に常にその第一線に参加していました。この時期の活動に参加していた人は無・私・夢中の中に居たと思います。寿福祉センターの活動 寿福祉センターの活動を年代順に簡単に列挙してみます。《保育事業》昭和53年4月以降、寿の子どもたちが定員の過半数を下廻った後、中国帰国者の子どもたちをはじめ、外国籍の子どもたちが増加し、また障害児の保育や一時保育を積極的に展開して今日に至っています。《診療所 相談事業》医療相談、生活相談は病気の早期発見を通じ医療扶助、生活扶助に結びつけていきました。アルコールが原因となる疾病が多く診療所の診察をから総合病院への紹介というルートができていました。相談は、はじめに

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