寿で暮す人々あれこれ
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— 139 —寿で暮らす人々あれこれきを学びたいと参加するようになりました。それが、後に多くの方が参加し一週間に一度開かれる寿夜間学校のはじまりでした。寿ドヤ街形成期、ドヤを経営してきた在日のオモニも、日本語を覚えたいと参加してきました。 つぶやきを受け止める ─ 加藤さんのことさて、加藤さんのことですが、卒業後に就職した小学校の教師を辞し「不可視のコミューン」を求めて沖縄を含め日本各地を放浪。昭和46年、寿生活館の職員となりました。ほどなくして、寿地区の活動と寿に限らない自らの幅広い活動を重ね合わせた毎月1回の通信が発行されました。B4二つ折りの8ページの通信で「生活者」と名付けられていました。中身の濃い通信でした。この通信は、彼が寿から異動するまで続きました。10年余の勤務の後、横浜市児童相談所に10年ほど勤務。その後横浜市立大学の教授になりました。その後、沖縄大学の教授となり定年を迎え退職。加藤さんの周囲はいつでもどこでも老若男女、幅広い分野の多士済々の方々が交流し集まってきます。加藤さんも様々な土地や場所に人を訪ねていました。退職を迎えた加藤さんには心おきなくやること、やりたいことが山ほどありました。しかし、その幸せな時間は間もなく奪われることになりました。退職の1~2年後、大学に請われ学長に迎えられることになりました。加藤さんには沖縄と大学の役に立ちたい強い思いもあったでしょう。そんなわけで断れなかったのではないかと思います。寿文学研究会も寿夜間学校も白百合俳句会も加藤さんがやろうとして呼び掛けたものではありません。相談や雑談でふっともらす悩みや願いを受け止めたことが出発点だったように思います。もっともそのつぶや

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