寿で暮す人々あれこれ
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— 12 —昭和50年2月、自治会は、活動の進め方などの違いから、自治会越冬実行委員会から降りることになりました。そして、同月に、横浜市により寿生活館の閉鎖が宣言され、越冬実行委員会の拠点が機動隊により排除されました。その後、この運動に潜在していた寿の各団体や個人間の相互不信感が表面化し、寿の各団体がコンセンサスをもとに進める活動が出来にくくなってしまいました。昭和51年1月、寿で活動する諸団体の有志たちは、相互不信の状況を何とかしようと寿地区協議会を発足させましたが相互不信を払拭できず、協議会活動の低迷は続き活動は途切れがちでした。昭和53年10月、寿の諸問題の共有と諸要求の実現のため、寿地区住民懇談会(以下、住民懇と略す)が結成され懇談会の代表に押されたのは、横浜バプテスト教会の益牧師でした。益牧師は、寿の地域活動にも参加し、子ども食堂の場や勉強会の場として教会を提供して寿の人々から厚い信頼を寄せられていました。ようやく寿が一つにまとまり動き出すことになり、住民懇の活動は多岐にわたり成果を上げることになりました。昭和49年10月に開設された寿町勤労者福祉協会には、開設されない診療所があり、その開設のため、寿の医療問題を考える会を設置したり、住民アンケートをしたり、並行して署名運動をしたりと積極的な活動を展開しました。念願の診療所は、1年後の昭和54年7月に開設され、この活動を通して、各団体間の信頼関係は作られていきました。住民懇の活動は、昭和57年までの7年間の間に60回余の会議を積み上げ昭和57年には、町内会館の建設を提言し、新たな住民自治の場ができていくことになりました。振り返ると、オイルショックに端を発した、寿の「仕事よこせ運動」に集約された数年間の混沌と活動の中から、新しい活動が次々と生まれた時期でもありました。昭和51年5月、初の労働組合、寿日雇労働者組合が結成され、恒常的な労働相談が開始されました。寿生活館職員有志による移動相談がシャッターの下りた2階の踊り場で行われ、寿福祉センターで無料夜間診療が開始、寿の労働者による合同慰霊祭の実施、寿夜間学校開校、昭和52年、寿身体障害者友の会発足、昭和53年、アコール依存症者のAA自助グループの活動が始まりました。

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