寿で暮す人々あれこれ
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— 129 —寿で暮らす人々あれこれ当時の寿福祉センター保育所は、何でもありだったのです。保育所が作ったルールというより、保育所を利用し通過していった保護者や子どもたちが残していった伝統といえるのではと思っています。保育所の保護者の方々(その4) ─ 木俣さん、増子さんのこと木俣さんは、お父さんが地域活動に積極的でした。港湾労働者としてバリバリ働いていました。お父さんは短気で、それも半端ではありません。時々、奥さんの増子さんは顔が青くはれ上がっていることがありました。痣が残って痛々しいほどのこともありました。雨のときや雪が降っているときでも、子どもと共に部屋から追い出されあてもなく街を歩き回ることも時々あり、相談室で一夜を明かしていただいたこともありました。あとでお父さんに知られて「余計なことをするな。夫婦の問題だ」と怒鳴りこまれたりしました。母と子の立場に立っていろいろと話をしましたが、聞く耳は持ってもらえませんでした。以来、何度も同じような場面に立ち会うことにもなりました。取っ組み合いのけんかの寸前までいったこともありました。木俣さんは、自分で納得しなければとことんやり合うというところがあり、納得するとコロッと気持ちが変わります。そんなわけで、木俣さんとは地域活動で意見を交わすなど話すことも多く、親しいけれど険悪になることもありました。ある時、憔悴し切った表情で増子さんが子どもたち3人を連れて相談室に見えました。昨夜、何の理由かわからないけど大声で怒鳴って、子どもと共にほうりだされ、子どもたちの本やかばんも外に放り出されてしまった。関内の駅で一夜を明かしてきたという。仲介を申し出るが「中国地方の実家

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