寿で暮す人々あれこれ
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— 128 —大事業の一つの区切りがつきました。もう春野さんのお子さんは来ないのだ…と、当たり前のことを受け入れることに、しばらく時間を必要としました。送迎の時には、春野さんの存在はすぐわかりました。声が大きく、よく笑うのです。「原始女性は太陽だった」と言われますが、向日葵のようでもありました。卒園されてその存在の大きさを改めて感じさせられました。少子化が進む中で、家庭での子どもたちの数は1~2人。3人というのはあまり多くありません。地域の中で自発的な子ども集団の形成は望むべくもありません。また地域環境も、子どもたちの自発的で無秩序な遊びの展開を受け入れる状況にありません。子どもたちの移動には、車が洪水のように走る道路が立ちはだかります。子どもが大人から隠れて子ども世界を形成する場所も、大人の「善意の管理」が行き届いて奪われてしまいました。それは、大人もまた地域で日常的に子どもたちと接する機会がほとんどなくなることです。たまに子どもと接する機会がある時はうるさい、邪魔だなどの反応が多いようです。最近は、大人の生活の平穏をみだすものとして、子どもは迷惑な存在へと変わってきているように感じます。いつでもどこでも大人にとって傍らに子どもがいた時代は、また子どもにとっても大人が傍らにいた時代です。大人にとって、いろいろな特徴を持った子どもの存在は面白かったのです。率直な子、利口な子、腕白な子、いたずらっ子、すねた子、生意気な子、大人に追っかけまわされる子…、もう人間のデパートです。面白くないはずはありません。子どもにとっても、怖いおじさん、優しいおじさん、無口なおじさん、手助けしてくれるおじさん…、子どもも大人も多様な関わりを通して、人間の理解を広げていました。一人ひとりは意識しなくても大切な存在でした。さて、春野さんとその周りの世間は、いいとか悪いとかをこえた何でもありの世間でした。そんなわけで、

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