寿で暮す人々あれこれ
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— 11 —望してきた「寿身体障害者地域福祉作業所」を横浜市の助成を受けて寿の中に開設しました。福祉センターは、寿で暮らす人々の願いを実現するための組織づくりに積極的に関わり、その支援に中心的な役割を果たしてきました。発足した各団体は、今日に至るまでさまざまな状況の変化に対応して活動を続けています。仕事よこせ運動(越冬闘争)昭和48年10月、中東戦争に端を発した第1次オイルショックは、翌年には、大型公共事業の凍結・縮小もあり寿に大きな影響を与えました。港湾、土木などの日雇労働求人が激減し、寿から手配師も消えました。11月には、寿で初の寿越冬実行委員会が結成され、寿の港職安、神奈川県労働部、横浜市に対し生活防衛の要求と仕事よこせの運動が始まりました。行政は、今後の交渉に寿地区自治会の参加を求め、越冬実行委員会も受け入れ、「寿地区自治会越冬実行委員会」(以下、自治会越冬実行委員会と略す)が結成されました。交渉の結果、寿生活館4階は野宿を余儀なくされた人々の居場所として開放され、その運営は、自治会越冬実行委員会が行いました。自治会越冬実行委員会は、同年12月から翌年1月までの間、横浜市や神奈川県労働部と交渉を重ねました。越年資金を神奈川県に要求しましたが、その回答への不満から港職安の窓口で支給阻止の行動も行われました。同年12月、港職安の管轄である神奈川県労働部に、自治会越冬実行委員会の400名ほどが押しよせ、その一部は労働部に泊まり込みました。昭和49年1月、要求実現のため県知事室を占拠するに至り、機動隊によって排除される事態となりました。この時が、ひとつの運動のピークでした。しかしながら仕事よこせ運動は、生活、生存運動ともなり長く続くことになります。この時期の運動は、その後の寿の住民活動に大きな影響を与えたように思います。はじめに

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