— 126 —こともありませんでした。物静かな子どもでした。トオル君のお母さんは、知的な感じの物静かな小柄なお母さんでした。考え事をいつも胸に収めている、そんな印象でした。お迎えに来る時は、他の母親と会話はしないで少し離れていました。保育所の伝言やトオル君のことで話しかけると、静かな笑みをうかべて口数少なく話しをしていました。ある日ふっと気がつきました。お母さんと話をするときかすかにアルコールのにおいがしました。顔色は良くはなく、少し黒ずんで見えました。晩秋の頃でしょうか、夕方の6時になってもお母さんがお迎えに来ません。ドヤを訪ねました。ドアをノックしましたが返事はありません。同じフロアの方にお聞きしましたが、姿を見ていませんとのこと。管理人室に戻って、管理人さんに部屋をあけてもらいました。鍵はかかっていませんでした。お母さんは、部屋で亡くなっていました。お父さんと連絡を取るため会社に連絡をしましたが、沖の本船で仕事をしているので戻るのは明日の早朝になるとのこと。僕のできる手続きや連絡を済ませ、葬儀屋さんにも来ていただき部屋を整えました。同じドヤの皆さんが時々顔を見せてご挨拶をしていきました。トオル君と一緒に外で遅い夕飯を食べに行きました。トオル君のいつもながらの物静かな様子が心に残りました。トオル君と一緒にお母さんの枕元でお父さんの帰りを待ちました。お母さんの胸の上の懐剣ばかりが目につきました。朝5時過ぎ頃、お父さんは会社の同僚とともに緊張した面持ちで帰ってきました。僕はほっとしました。寿で仕事をさせていただいていて、多くの方々の死に出会うことになりました。寿で42年ですから多くの方は鬼籍に入っていらっしゃいます。心細いなあと思うこともありますが、多くの方々とのその出会いが今の自分につながっているのだなあと思うこのごろです。
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