寿で暮す人々あれこれ
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— 105 —寿で暮らす人々あれこれ保健婦は、今は保健師と呼ばれています。ここでは当時の呼称で保健婦を使います。寿福祉センターが開所してから1年目のある日、中保健所の渡辺保健婦さんが、寿地区の担当になったと挨拶に見えた。山形弁丸出しで親しみある笑顔が素敵だった。中保健所とは、日雇労働者のため夜間レントゲン検診の実施を要望するなど何回か話し合いをしていた。後日、中保健所による夜間レントゲン検診が実現した時、保健所の職員が苦にしていたことは、寿の人たちに対する「恐怖」だったようだ。そんなわけで、行政にとっては、寿ドヤ街に女性が一人で訪問することなど考えられなかったのだろう。職員は一人で寿ドヤ街に行かないよう注意をされていた。渡辺さんは、雪国の山形で訪問を通して母子の健康を守ってきた経験から、保健婦は訪問が基本との考えを強く抱いていた。だから、大都市横浜での母子を保健所に「呼びつけ」検診をするというシステムのあり方には満足していなかった。当然、デスクワークの合間をぬって寿へ足が向くことになった。当時、寿は横浜市の健康管理体制から取り残されていた。渡辺保健婦の地道な「孤独」な戸別訪問が続けられた。ある日、渡辺保健婦から要請があった。あるドヤのご夫婦。夫は高齢でアルコール依存症、妻は今で言う知的障害がある。生まれたばかりの女の子のおむつはウンチがついたまま窓に干されていた。乾くとかき落としておむつを当てるので、赤ちゃんのお尻はただれて真っ赤になっている。センターで湯を沸かしヤカンで何度もドヤに運んだ。渡辺保健婦はドヤの狭い廊下に置いたたらいで赤ちゃんのお尻をていねいに洗い、拭いた。赤ちゃんのお尻が治るまでお湯運びは日課となった。同じドヤに住むお母さんたちも手伝った。粉ミルクは水で溶かしているので哺乳瓶の乳首はすぐ詰まってしまう。お湯で溶かすように説明してもできそうにない。渡辺さんは、このご夫婦の世話をよくしている同じフロアで暮らすお母さんに、お湯でよく溶かしてあげるように頼んでいた。こんなことがあってから渡辺さんと仕事をする機会が増えていった。当時、寿地区には、子どものいる所帯が550所帯、1000人程の子どもたちがいた。ドヤは、2~3

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