寿で暮す人々あれこれ
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— 102 —やがて港の発展とともに関内も手狭となり、吉田新田の遊水池であった南一つ目沼が埋め立てられました。こうして、開港以前は耕作地であった吉田新田は、発展する横浜港の後背地として長者町、福富町、埋地七カ町の各町、伊勢佐木町等の町が次々と起立して市街地化が進みました。やがて、明治から大正にかけて埋地七カ町は、輸出用の織物問屋やパジャマの縫製等の中小の町工場が軒を連ねる横浜の代表的な下町として発展してきました。埋地七カ町は、大正8年、千歳町を火元とする大火に焼かれ、横浜開港以来といわれる未曾有の惨事に見舞われました。その復興への取り組みは横浜市が都市計画に着手する契機ともなったといわれます。埋地はその後の関東大震災の罹災も乗り越え活気あふれる下町として存在していました。さて、時は第2次世界大戦に飛びます。昭和20年、日本の敗戦で幕を閉じます。その直前の5月29日、横浜は米軍の大空襲に襲われます。わずか1時間程で市内の34%が焼け野原と化したと言います。市の人口の3分の1の31万人が被災。1万人余が死亡したといわれます。中区から南区にかけての吉田新田も焦土となりました。その焦土となった埋地七カ町を上空から撮った写真で見るとコンクリートの建物がわずかに残っています。そのひとつは紛れもない寿福祉センター保育所に改装する前の当時青果市場であった建物と思われます。昭和20年8月の敗戦後、米軍は横浜に進駐して、市街地の27%を接収。廃墟と化した市の中心部にカマボコ兵舎を建てていきました。ここ埋地7カ町の中心である、松影、寿、扇の各町にもカマボコ兵舎が建てられました。寿地区ドヤ街の誕生はもうすぐそこに来ています。

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