— 100 —─閑話休題─寿地区今昔 寿の成り立ち《1》寿地区とその周囲は、昔、野毛丘陵と山手丘陵に囲まれた浅い入海でした(左図の参照)。徳川幕府の四代将軍の許可を得て、江戸の材木商である吉田勘兵衛が埋め立てました。埋立地は吉田新田と言い、難儀の末10年かけて完成しました。そのため「おさん」という女性が人柱とされたと言い伝えが残っています。埋立地の氏神は京浜急行南太田駅近くの日枝神社ですが、その故事にちなみ通称お三宮と言われています。埋立地面積は、112町で水田が8割ほどを占めていたといいます。この埋立地は、中央の中川をはさんで右を北、左を南とし交差する6本の農道で一つ目、二つ目と区切り、それぞれを南一つ目、北一つ目と呼びました。寿地区はこの埋立地全体の遊水地で「南一つ目沼」と呼ばれていたところです。時移り、明治になり横浜は開港後大きく発展しました。港の後背地として「南一つ目沼」の埋め立てが始まり、6年ほどかけて明治6年に埋め立てが完成しました。埋立地の町名は謡曲から採ったと由来されています。南から松影、寿、扇、翁、不老、万代、蓬莱の各町で「埋め地七カ町」と呼ばれています。《2》安政元年、ペリーと幕府の間で日米和親条約が横浜村で調印されました。その5年後の安政6年、横浜は諸外国に向けた開港場をとなりました。ここに300有余年続いた徳川幕府の鎖国が終焉しました。その後の横浜の発展は目覚ましく、派大岡川の内側(海側)を関内として外国人居留地に位置づけました。
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